岩波書店"図書"2008年3月号より
「島国のDNA」

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 怪我を理由に地方巡業をさぼり祖国・モンゴルでサッカーに興じていた横綱・朝青龍が日本で世論の袋叩きにあい、トラウマを患い、療養のためモンゴルに帰国し、師匠の高砂親方が、自分の責任に於いて向うで彼の療養と行動を管理すると明言してモンゴルに同行し、僅か三五時間で手持ち無沙汰で帰国したことは、昨年、散々ニュースになった。
 日本人にとり朝青龍は強いから国技の最高峰の横綱になった外国人である。だが、モンゴルの人々にとっては、彼は大日本の横綱の座を力でもぎ取った祖国の英雄である。自分の国に来れば偉いのは英雄・朝青龍であり、師匠であろうと高砂親方の背負った日本の国技の権威はモンゴルの人々には通用しない。朝青龍はモンゴルに帰れば日本国技の束縛を超越した存在であり、国技の親方の権威が及ばずすぐ帰国せざるを得なかったのは当たり前。日本独自のしきたりは当然外国には及ばないのを知らなかった親方も大相撲関係者も、国際感覚が全く欠如していると言わざるを得ない。

 −−その昔。イタリア・ヴェネツィアは、消失する前のフェニーチェ歌劇場でのこと。プッチーニ作曲のオペラ『ボエーム』第一幕。屋根裏に住む詩人の卵ロドルフォが、明かりの種を貰いに来たお針子ミミが、階段の明かりと持病の肺病のために疲れ果てて倒れこむのを見て、「インパリディッシ−−青ざめた」と歌ったとき、満員の客席から失笑が起こった。あのことを僕は一生忘れない。ミミ役を歌っていたのは黒人ソプラノ歌手だった!黒人が青ざめるわけがないじゃないか!思わずそう笑ってしまった聴衆は重大な人種差別を犯してしまったことに気がつき、笑った後にすぐ反省の静寂がきた。そのときに僕は考えた。人種区別(差別ではなく)は人間の業だ!そしてその黒人歌手を心から哀れんだ。彼女はトゥルーズ国際性楽コンクールで優勝した僕の後輩。その縁で僕は聴きに行ったのだ。彼女はとても良く歌っていたのだ。そしてハッとした。俺だって同じ有色人種の歌手じゃないか!
−−ケルン歌劇場専属第一バスの頃。第一バスはバスの主役をやる歌手である。端役は歌劇場があるその国の人が担当する。『マノン・レスコー』というこれもプッチーニのオペラでの第一バスの役は、ジロンドというパリの大金持ちでマノンの老パトロン役だった。初日の批評には僕のことをこう書いてあった。「ジロンド約の岡村喬生は、まるでアラビアンナイトの魔法使いのように−−」。あからさまに有色人種だからとは書かなかったが、見てくれの違いを的確に突いていた。オペラはもともと白人が白人のために書いた舞台芸術である。プツチーニはミミを黒人が、マノンのパトロンを日本人が演じるとは思ってもみなかっただろう。
 −−ベルリンの壁がまだ厳然として聳えていたその昔、僕は西独に住んでいた。片田舎のリゾート地の小さなエレベータに乗り込んだら、いたいけない男の子を抱いた遅々蚊帳が先客だった。「あっ、ネーガー!」可愛い声でその子が僕を見たとたんに素っ頓狂な声をあげた。ネーガーとは黒人の意味だ。僕たち夫妻を見たその子は、幼児にとり肌の色の違う人たちを総称するネーガーと言う言葉で異人を見た歓声を上げたのだった。「違う違う!」父親が慌てて訂正した。「日本人だよ」と、すぐ僕がドイツ語で子供に言って、お父さんは更に狼狽した。「坊や、アジアの人だよ」そして僕に謝った。「−−済みません!」。子供は正直だ。見てくれが違う僕達のことを区別した。差別ではなかった。
 −−終戦後まだ間もない頃の東京での事。つり革にぶら下がっている人も居た都バスの中で頓狂なおばあちゃんの声が聞こえた。「この外人たち、日本語を喋っているよ!」首を回してみると、そのおばあちゃんの座る前の座席に二人の白人が並んで座っていて、日本人と全く同じに流暢な日本語で喋り合っていた。その一人がやおら大声で回りに聴こえるように応じた。「外人が日本語を喋って文句があるのですか!?」車内は沈黙が支配した。その一言は痛烈に乗り合わせた日本人たちの肺腑をえぐったのだ。まったくその通りだ!
日本に来たら日本語を喋ればいいのに、英語でしゃあしゃあと語りかけてきて当たり前な顔をしている外国人が殆どなのに、その二人は共通に語り合える共通の言葉が日本語だけだったのか、日本にいるのだから日本語を使おうと思ったのか、はしらないが、日本語で喋り合うという異国での当然の礼儀を果たしていたのだ。だから、なぜ頓狂な声を出されねばならないのか!という講義の言葉だった。おばあちゃんは正直だった。彼女は乗客たちの声を代表していた。この外国人たち、英語でなくて立派な日本語を喋りあってるじゃないの、何て珍しい!!と彼女は言ったのだ。この言葉ほど端的に日本人の非国際性を突いた一言を僕は知らない。

 昔のことを書いた。しかし時は過ぎても日本人の非国際性は変わってない。
 −−日本語は先進諸国語の中で一番通じない言葉である。ヨーロッパ系の言葉共通の互換性がない言語を母国語に持つ日本人の英語はジャパニーズ・イングリッシュと言って、外国人には解りにくい。だから日本人観光客相手の商売の外国人の中で、ジャパニーズ・イングリッシュを学ぶ人が出たそうな−−。会話習得が、駅前留学とかいって大々的宣伝に値する商売なのは日本だけだ。異国語の会話は日常生活で無料で習得するのが当たり前なのが欧米社会だ。異国語の会話とはそんなものであることを日本にいる人は知らない。
 −−タクシーのドアが自動的に閉まるのは日本だけのようだが、開き扉に今でも弱いのが日本人だ。僕の行きつけの駒沢オリンピック公園内のトレーニング・センターの入り口は二重の透明な前後に開く扉で仕切られている。この扉を開けっ放しにしたままなのが日本人。見ていると外国人は皆元に戻して閉じていく。これは日本人がだらしが無いからではない。伝統的に欧米の家屋は石造りで木造りの日本家屋と違い非常に重い。だから向こうでは建物の中に埋め込む引き戸は無くて、前後に開く扉が付けられる。一方日本の木造の軽い家には左右に引く引き戸も障子も簡単に付けられるのだ。向こうのタクシーを降りるとき得てして閉めるのを忘れて運転手に愛想をつかされるのが日本人客なのは頷ずける。
 −−数年前の夏、ロッシーニの故郷ペーザロでのこと。ペーザロはイタリアのアドリア海に面した小都市だが、有名な古代ローマの闘技場跡でのヴェローナの、そしてプッチーニが長崎を舞台にした『マダマバタフライ』など数々の名作をそこで書いた村トーレ・デル・ラーゴでのオペラ祭と並び、夏にはオペラ・フェスティヴァルがおこなわれ、人口が急に膨れ上がる夏のリゾート地である。日本への葉書用の切手を買いに中央郵便局へ行ったら、中年の女性が中へ引っ込んでしばらく経ってから出てきておずおずと僕に尋ねた。「すみません。日本はアフリカのどのあたりにあるのですか?」僕は、日本はアジアの何処にあるのか、という質問を予期していたのだが! かく日本が知られていないことを日本人は知らない。
 −−昨夏、ウィーンのホテルでの朝食でのこと。和食コーナーに無かった生卵を注文した。本当にナマの卵を注文した事を確かめに来たウエイトレスと一緒に、目を丸くしておくからコックもやって来た。僕が茶碗に割って入れ醤油をかけてかき混ぜ、ご飯にかけて啜りこみ食べるのを見て、精力をつけるのだね!とでも言うかのように二の腕の筋肉を僕に向かい膨らませて頷いた。彼らにとって、生卵を飲むのは蛇と同じなのだろう。白魚の踊り食い、伊勢えびの活づくりなどの、旬の味覚へのとことんのこだわり、納豆の味など、和食の特殊性。それが日本国外ではびっくりされることであるのも多くの日本人は知らない。

 ジャパンはいざ知らず、ニホンという言葉は、外国のそこらじゅうの車や製品で見かけるトヨタやソニーなど日本企業名より向こうでは知られていない。わが国はその経済、製品の力が強すぎ、その文化は知られていない。それが残念ながら偽らざる国外での評価だ。
 周囲を海に囲まれ、ペリーの黒船の来航の約一五〇年以上前まで、産業革命をとうに胎内に取り込んだ先進諸外国に比べ、外部からは手付かずに仲間社会だけで生きてきて、突然ちょん髷とかみしもで世界に出た我が日本。名著『日本人の美意識』でドナルド・キーンさんが説くように、その、固有の歴史の苔を見にまとった、欧米他人社会の人々には簡単に窺い知れない独特の奥深い文化は、ただでさえ他人社会の西欧には通じにくいのだ!
 祖先のDNAはまだみごとに我々日本人に受け継がれている。我々はまだまだ国際社会とはかけ離れた日本という島国の価値観に縛られた「人種」であることを自覚すべきである。
(おかむら たかお・オペラ歌手)